記憶の旅 中庭光彦の研究室

都市や地域の文化について

鞆の浦-保全とは何か

かっての景観紛争地 鞆の浦
 3日かけて、倉敷~鞆町尾道を回ってきた。鞆町といえば北前航路の要衝、足利義昭の将軍府、朝鮮通信使の対潮楼、坂本龍馬のいろは丸と、歴史が重合しており、ヨソ者の観光客としてはいくらでもすごせる。
 一方、今も残るこの近世的な鞆湾を横切って、橋をかけ、埋立て、県道をつくろうという計画がかつてもちあがり、賛成派・反対派で町内住民の間にひびが入ったことがあった。そこにヨソ者の事業推進者と景観保護者が入ってくるので余計騒ぎが広がった。結果としては2009年10月に広島地裁で判決が下り、この事業は止まった。この景観紛争は、地域研究者の間では大きな話題となった。
 観光客はそのことを忘れがちだが、なぜ橋を作ろうとしたのか。それには地元住民の願いがある。
 それは交通渋滞だ。

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保全の様々な意味
 問題は今も変わらない。狭い道、路地が多く、車2台がすれ違えない場が非常に多い。当然、駐車もしづらい。その上、私が感じたのは平日16時頃にしては、車通行量が非常に多い。見たところ観光客の割合は思ったほど多くはなさそうだ。その上、家に駐められている車を見ると、なぜかワゴン車や大型車が多い。これでは移動ができないだろう。
 私自身は景観が守られてほっとしている一人である。
 しかし、現場を歩くと、住民の交通ストレスがひどいこともわかる。パークアンドライドによる観光車両の制限は必要だし、入山料と同じ理屈で歴史遺産の保全料を課すことも必要かもしれない。
 では公共事業が中止され、住民たちが保全したものは何か?人口は5千人台に減少しているし、観光客が来るのに事業者は思ったほど多くはない。港に係留されている船はほとんどがプレジャーボートで、漁業も萎んでいる。
 鞆の浦はまちなみ空間が保全された結果、観光客のための映画セットになったようだ。周囲、あるいは市場が支えきれなくなった時、鞆の浦は放棄集落となる可能性もある。それも「保全」の一つの形態と言えるのだろうが、それは望ましいことなのだろうか。「それを決めるのは地元市民、観光客だ」などと評論家のように判断を素人に丸投げするのは無責任だろう。
「利用する人がいる」というのは、一つの判断基準だろう。用の美だ。私はこの基準を大事にしたいと思う。現在は用の美がかろうじて保たれている。今後新たなおもしろい人が居住し、新たな用の美が生まれるか。そこに鞆の今後を考える判断基準がある。

奥に灯籠が見えるが、手前の船はプレジャーボート

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下 この県道の先に橋をつくろうとした

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