先週は、アジアサイエンスパーク協会の主催で、韓国の大学生18名とともに燕三条を4日間にわたり視察した。そのコーディネートを行った。人口減少は韓国、日本ともに大きな問題とされている。そこで大学がどのような役割を果たせるのか?
日本の学生と異なり、韓国の大学生は訪問先で積極的に質問を行うし、その目線も国を背負っているがごときマクロの視点を感じた。
この内容は、多摩大学のHP
にも掲載されました。
先週は、アジアサイエンスパーク協会の主催で、韓国の大学生18名とともに燕三条を4日間にわたり視察した。そのコーディネートを行った。人口減少は韓国、日本ともに大きな問題とされている。そこで大学がどのような役割を果たせるのか?
日本の学生と異なり、韓国の大学生は訪問先で積極的に質問を行うし、その目線も国を背負っているがごときマクロの視点を感じた。
この内容は、多摩大学のHP
にも掲載されました。
リバーフロント研究所が発行する機関誌『RIVER FRONT』101号に、 「これからの水辺、かわまちづくり」という座談記事が掲載されました。
國學院大學(当時)の楓先生、近畿大学の飯塚先生、リバーフロント研究所の塚原代表理事と、かわまちづくりについて、言いたいことを話しています。
といっても座談会は、今年の1月で寒かった。そして掲載されたのは、蒸し暑い8月14日。折しも、千葉で前例の無い程の豪雨災害が起きた。
近年、都市の排水能力が追いつかない豪雨ケースが目立っている。自然現象だからしようがない、と片付けるわけにはいかない。いかに早く水循環を回すかと、排水に努力しているオランダのような市民国家もある。これもかわまちづくりの精神の根っこだ。
東京都市町村自治研修所で、昨日、政策デザインゼミナールの基調講演を行った。2年前にお引き受けした時は1年で終わると思ったが、今年で3回目となる。
実際に来場してくれた方、オンラインの方、合わせて60名の参加者。この参加者は東京都多摩地域各市町村、それに島嶼部の町村の方々。
政策デザイン×新しい産業振興政策ということで、包摂的成長政策の考え方を紹介した。これはEU発で岸田政権の新しい資本主義に近いものなのだが、現在の高市政権は政策転換し、地域未来戦略ではこれを否定した。そして,先週月曜日には、全国に先端産業のクラスターをつくるという絵を公開したのだが。「経産省の職員のみなさん、もう少し現場のサプライチェーンを見てください」とお願いしたくなるシロモノ。高市さん、大丈夫かな。

3/15ー19にかけて台湾に行ってきた。今度は、台東、花蓮といった東側が見たかったため。花蓮は魅力的なまちで、これから台湾観光の穴場となるのではないか。
最終日には台北でお約束の士林夜市を訪れたのだが、3年前と変わっていた。
3年前は猥雑さがあり、非日常感いっぱいの飲食街。

この場所がリニューアルされ、現在はこんな感じでショッピングモールのフードコートの様。

観光客は注文しやすくなったが、非日常感がまったくなくなってしまった。でも、うまい牡蠣オムレツと空心菜炒めを食べに、また来るんだろうな。
1月8日から帯状疱疹になり1ヶ月ダウンしていたので、更新が遅れたが、1月7日に行った矢掛町と井原市の報告をする。
矢掛町は観光業界では「分散型ホテル」というコンセプトで知られた所。どんなもんか?ということで実際に見てきた。
行くと、道の駅。但し飲食・物販はない。聞くと、それはまちなかに出てくださいという。それにしては、建物デザインが水戸岡鋭治というのはどうなのだろうか?

まちを歩くと、さすが昔の山陽道だけあって趣が残っている。ただ、矢掛ならではの飲食店、物販店はあまり見かけない。端から端まで歩いて滞在時間1時間。

その後、少し足を伸ばして、井原市役所にうかがった。井原市は多摩大学・出原教授のふるさと。事前に連絡をしていただいたこともあって、井原市役所建設経済部観光交流課課長の藤岡健二さんにごあいさつ。
いつもの調子でアクティブインタビュー。井原はデニム産地で、昭和の頃は全国の7割のシェアを誇ったこともあるとのこと。これは私の勉強不足。デニムといえば、児島と思っていたのだが、児島は縫製のみということ。
いまでは、市内のクロキ(株)がルイヴィトングループのOEMを行っている。他にも日本綿布(株)があり、まさにデニム生産の集積地。井原デニムの歴史的背景についてはこのサイトがわかりやすい。

思わぬ情報を得て、その後、予定にない児島にも足を伸ばし、おもしろい取材でした。サービスを含む生産地ではない場所は、どのように観光地として生き残るのか?いま流行のリノベーションや、古い民家・商家の一棟貸しで果たして生き残れるのか。考えさせる事例でした。
2025年12月をもって、ミツカン水の文化センターを閉鎖するとのお知らせがあった。
創設が1999年1月なので、26年のプロジェクトに終止符が打たれることになる。
このセンターは、私にとっても思い出深い存在だった。
私自身は創設準備期から広告代理店の依頼を受け、立ち上げを手伝い、水文化という「制度・ルール」がおもしろいテーマだったこともあり、かなりの時間をこの活動に捧げ、2020年秋に離れた。
この間、社員・スタッフともども「日本水大賞厚生労働大臣賞」を受けるなど、それなりの評価を受けてきた。
その秘密は、水という河川、上下水道、工業用水、地下水、環境、森林、海岸、われわれの食、すべてにかかわっている大事な存在を、相互につなぎ、公共事業の中で固定されがちな「あたりまえ」と思われる水文化というルールを、現代流に再定義しようという試みが、新鮮に映ったからだと思う。
水文化の解釈には共有資源管理論(コモンズ論)やソーシャル・キャピタル論を用い、総称して「人と水との関わり」と説明したが、他にもいくつかの理論を持ち込んだ。それを抱え、各地の現場取材や有識者に会い、アクティブ・インタビューを行った点に意義があったと思う。「わかる人にはわかる」し「生活者には、驚きを与える」という点を心がけ、年3回発行の機関誌も私は2010年頃まで企画編集した。
しかし、26年は長い。
スマホ化、個人化が進む世の中で、水文化は変わる。
2011年の東日本大震災や2025年の能登半島地震、その間の想定を超える災害で、水文化も変わった。
それに、2025年の夏、四季の国から二季の国となり、水文化は変わりつつある。
こうした変化に、生活者の参考となる指針を示すのは大変なことだろう。
しかも、民間企業が資金提供する団体なので、SNS時代の中で、なるべく顧客から文句が出ないように活動をするようになる。
当初は熱を込めた社員やスタッフもいなくなり、自らデザインせずに仕事する人が出てきたのかもしれないし、それはそれで組織の中ではよくあることだろう。
最近5年間の事情を私は知らない。
でも、あえて閉鎖を選んだということは、一つの決断として尊重したい。
新しい水文化は、新たな人が創ればよい。
つまり、熱をもった人々が立ち上げたプロジェクトを承継するのは、簡単ではないことを示したとも言える。
ミツカン水の文化センターを応援して思いを寄せてくれた人々に、作り手は感謝をしていることだろう。
26年間、ご苦労様でした。
企業による文化活動は、立ち上げ時よりも、評価を得てからの方が難しい。ここに一文を残すこととする。