記憶の旅 中庭光彦の研究室

都市や地域の文化について

地域資源という言葉で示せること

事業あっての地域資源
 今週の週刊ダイヤモンドを読んでいたら、岡山忠興氏が「地方創生ブームの愚『地方PR動画』乱発はネット時代のハコモノ行政だ」という鋭い論考を書いている。その中で「地域資源」という言葉がバズワード化していると指摘している。一応言葉を当てているが、何と区別しているのかよくわからないムダな言葉。
 私も同感だ。
 2月に、高知市で、地域資源でまちづくりという類いの講演を頼まれたので、地域資源の言葉をただしてきた。例えば、「この土地には豊かな森林があり、美味しい食べ物がある。これは立派な地域資源だ・・・だから、これを活かして・・・」というようなことが、大学教授クラスの人からも気軽に口に出る。でも、これでは何をどう活かしてよいのかまったくわからない。
 地域資源の前提には、「事業」がある。徳島県神山町のようにサテライトオフィスを誘致するという事業にとってみれば、適度にロードサイドショップに近く、でも適度に過疎で、情報基盤はばっちり。これは地域資源だ。事業があってこそ資源が見えてくる。だから事業を考えながら、地域資源の意味を決めていきましょう、という話をした。
 
事業なしの地域資源の多さ
 1960年頃までは森林は確かに資源だった。薪に使うし建材にも使われた。水も資源だった。農業用水路が無ければ食料生産はできなかったが、いまは農地から人が離れている。漁場も資源だった。これも若者離れが続いている。そこで「人も地域資源だ」と言葉がスライドするのだが、教育現場では不確実な中での人のチャンス、それを活かす能力、協力して寛容な社会を維持する力をどのように育てればよいのか、七転八倒している。
 飛躍するが、みんなが相手の顔色をうかがいながら、なかなか新たな事業を生み出せない。
 おもしろさ。それが新たな事業を生むには決定的である以上、昔のものの見方で「地域資源が大事」と言っても意味が無い。
 とはいえ、EVシフトとそれに伴う再生可能エネルギーの普及の中で、スマートシュリンクに向かうシナリオはつくれると思っている。その見通しに立った時、何が地域資源になるか?それを発掘するのが、ほんものの地方創生だろう。