記憶の旅 中庭光彦の研究室

都市や地域の文化について

9月入学論を話し流す人々の政治的意図は?ピンチはチャンス論の浅さ

■ズームでの授業移行完了

 4月は私のゼミ学生とzoomでやりとりし、単なる使い方ではなく、教育の質について貴重な示唆を得た。しょせんzoomは道具である。この道具でわかったことは、意外に疲れること。教員も疲れるが学生も疲れる。それに当然のことだが対面(face to face)には劣るため創造的なやりとりには制約になることだ。

 双方での資料共有が必須になるため、学生も教員もより密度の高い授業を行う必要が出てくる。おかげで、私は授業で使うパワポに解説を密に付け加え、学生にも読解力をつける文献批評の作業を課すことで、昨年までよりも学生を鍛える授業デザインができた。5/7から地域ビジネスプランニング、地域観光論、秋も地域政策論はそのように行う目処がついている。

■9月入学論の不道徳

 そんな中、一昨日あたりから9月入学論が都知事を含む主要県知事や国会や一部の評論家で話題になっている。どうせ一時のバズニュースかと思っていたが、知事や首相が話している。

 いまやらねばならぬことは、緊急事態宣言で教育機会を奪われている学生に、いかに非接触で、これまで以上の勉強をしてもらうかということである。それをするためには高等教育にあっては学生のwifiとPC環境を揃えるにはどのような方法・財源があるか、知恵を絞るべきだろう。何せこの環境が長期にわたる可能性が高いのだから。

 ところが、ある人々は対策として9月入学論を出してきた。ある知事は「コロナのレガシーである」とまで言う。ピンチはチャンスと言うのである。短期的対策と長期的対策の順番・優先順位をつけられないのだ。ピンチはチャンスではない。ピンチで失われる損害を未来の施策で相殺できると仮説対策を具体的に想像できて、イニシアティブをとる気があって、初めてチャンスになる。「9月になったらいいな」ぐらいで、貴重な行政資源をムダにしてもらいたくない。

 そして、おそらく言っている方も、聞いている政府の方も、実際にはできないと思っているのだろう。一般論として望ましいぐらいのことしか話していない。教育補償に目を向けさせないためなのかわからないが、ある意図があるのだろう。コロナショックの短期的な課題に向き合わないで、長期的なダメージにも向き合っていない言説に、これらの政治屋の不道徳さが際立つ。

 今後失業率が上がり、社会構造が変わる時、高等教育をどう変えるか?それを今までの平時の感覚で「欧米並みだから」という理由でしか語れない教育オピニオンが流通してしまうことが、チャンス無きピンチだ。